由布院の歴史

"ゆふいん"は由布院?それとも湯布院?
まず始めに質問です。皆さんがインターネットで"ゆふいん"検索をする際、「湯布院」と「由布院」の2つの漢字が出てきます。はたして、どちらの漢字が正しい"ゆふいん"なのでしょうか。
正解は「どちらも正しい」です。
明確には2つの意味には違いがあります。もともと「湯布院町」は1955年(昭和30年)に由布院町と湯平村が合併した際に、由布院の"由"に湯平の"湯"を掛け合わせて誕生した町名です。よくマスコミ等で取り上げられる由布院駅周辺の温泉は「由布院温泉」で、その由布院温泉に山間の湯治場の名残を残す「湯平温泉」、高原リゾート地の「塚原温泉」を含めた湯布院町内の三温泉をまとめたのが「湯布院温泉」です。
湯布院町が町全体の知名度向上を狙ってか"由布院温泉"を"湯布院温泉"としてPRしてきました。そのため、由布院温泉は湯布院温泉と同意と思われていますが、実際には2つの漢字の持つ意味合いには大きな違いがあるのです。
湯布院の今日までの歩み
日本に名だたる温泉地湯布院。1583mの雄大な由布岳と素朴な田園風景に囲まれた美しい盆地です。美術館やおしゃれなお店も数多く、毎年400万人もの人々が癒しを求めにここ、湯布院にやってきます。しかし、「ローマは1日にしてならず」と同じように、湯布院も短期間で今のような街を作り上げたわけではありません。湯布院の歴史を振り返ると、その道のりは困難や逆境の連続でした。
昭和の始めの湯布院は
昭和の始めの湯布院(当時はまだ由布院町)は現在の観光スポット金隣湖周辺に小ささ温泉地を抱えるのみで、湿地帯での農業が中心の一農村でした。そんな平凡な農村に最初の転機が訪れたのは1952(昭和27)年、この地に巨大ダムの建設構想が立ち上がったことがきっかけでした。由布院盆地全体を飲み込むこのダムの建設をめぐり、生活レベルの向上を求める農家と自然環境の喪失を危惧する青年団・旅館経営者との間で町が二分される大激論となりました。
結果的には建設中止となりましたが、このことにより住人が真剣に町の将来について考え始め、将来の湯布院のありかたについて議論されるようになったのです。
1955(昭和30)年、合併後の初代湯布院町長に岩男頴一(いわおひでかず)氏が就任し、「湯布院保養温泉地構想」を打ち出しました。この構想は近隣の別府などの大型温泉地とは差別化し、歓楽要素を無くし観光で来た人にのんびりくつろいでもらう観光地にしようという構想でした。その後、湯布院は着実に今日のブランドイメージを築きあげていきます。
湯布院のまちづくり創世記
岩男町長のリーダーシップの下、住民と行政が一体化となった町づくりが湯布院において進められていきました。行動力のある旅館の若手経営者がいたことも手伝って、次々に温泉地として新しい取り組みを打ち出していきました。
しかし、環境や景観を守りつつ、観光地としての発展していくことは非常に困難なことでした。高度経済成長期の日本全体がリゾートブームに突入する中で、湯布院にも土地開発の波が波及してきました。徐々に徐々に観光客が増えてきた湯布院に外部の大型資本が乗り込もうとしてきたのです。
- 1970(昭和45)年
- 湯布院の玄関口、猪の瀬戸にゴルフ場建設計画
- 1971(昭和46)年
- ファームタウン建設計画
- 1972(昭和47)年
- おとぎ野サファリーパーク招致
数十億円規模の大型開発の計画が立て続けに持ち上がってきたのです。高度経済成長期の日本では、大型開発は誘致されるものの建設反対されるということはまったくといっていいほどありませんでした。
そのような時代背景があるにもかかわらず、「自然・景観を守る」ことが温泉地湯布院にとって最も大切なことであるとの認識の下、青年団を中心とした反対運動が繰り広げられました。結果、すべての計画は白紙撤回となったのです。
しかし、その反対運動も必ずしもすべての住民に賛同されたわけではなく、前回のダムのときと同じく住民意識の相違による町民内の亀裂も生じかけていました。そこで「明日の由布院を考える会」が若手旅館経営者によって設立され、住民はお互いで情報交換・意見交換するとともに、真剣に湯布院の将来・町づくりについて考える場ができたのです。
それまで協力し合うことが少なかった住民同士が連携し始め、将来の理想とする "ゆふいん"が同じ価値観として住民同士で共有されるようになっていきました。
温泉観光地としての湯布院
1975(昭和50)年、湯布院は大きな地震に襲われ総額50億円の建築物への損害とともに、「ゆふいんは壊滅状態にある」というメディアからの風評被害も受けました。しかし、大きな損害を受けたにもかかわらず湯布院の人々は「マスコミからの注目」を逆手にとったのです。辻馬車運行、音楽祭の開催といったイベントをたて続けに開催し全国に向けてマスメディアを通じて情報発信をしつづけ、「湯布院の健在」をアピールしていったのです。
- 1975(昭和50)年
- 辻馬車運行開始、牛食い絶叫大会第一回開催
- 1976(昭和51)年
- 第一回湯布院映画祭開催
- 1979(昭和54)年
- 町に観光課設立
元々、1969(昭和44)年ごろから町長、旅館経営者が立て続けにヨーロッパの観光先進地を視察し、その中でドイツのヴァ―デン・バイラーを参照にクアオルト(温泉保養地)構想を固めていました。そのような下地が形となり花開いたのが1975(昭和50)年以降であると言えます。
折しも1974(昭和49)年のオイルショックを皮切りに人々の観光に対する嗜好が大きく変化していきました。温泉観光は次第に男性の団体客中心から女性の小グループへと旅行のスタイルが移り変わると同時に、湯布院のまちづくりも評価され始め、次第に日本中から脚光を集めるようになっていきました。
民間側の動きが活発化すると同時に、行政側も観光化の設立、大分県の一村一品の登録、社団法人日本温泉協会の国民温泉保養地指定への動きなどを活発化し、さらに行政と民間、住民が一体となったまちづくりが進められるようになったのです。
人々の旅行ニーズの変化、積極的な情報発信、行政・民間・住民が一体となったイメージづくりの結果、年間400万人の集客と癒しの空間とを両立し、かけがえのない自然環境を持つ今日の湯布院が形成されたと言えるでしょう。
そして平成17年、湯布院町は周辺2町(狭間町、庄内町)と合併し「由布市」となりましたが、今でも高い人気にあぐらをかくことなく、きめ細かなおもてなしで多くの観光客を迎え入れています。
湯布院発展の原動力は
湯布院の観光地としての躍進は"人"の力抜きでは語れません。湯布院の人々は「柔軟さ」と「確固たる信念」を持ち合わせているように見えます。今日にいたるまで意に添わない開発や自然災害といった数々の逆境に遭遇しつつも、その逆境を利用し、住民意識の形成や湯布院のPRを行ってきました。
地域が主体となった地域の特色を生かした温泉街創り。
湯布院を訪れたことがない人は、是非実際に足を運ばれて湯布院の温泉、自然、人にふれてください。きっと心も体も癒されるはずです。また、これまで湯布院を訪れたことがある人も、是非、湯布院の歴史を踏まえ再訪してみてはいかがでしょうか。新しい発見がありますよ!!
湯布院生産者一覧
artegioの粒マスタード
マスタードの実をつぶさず丸ごと使い、プチプチした食感を出しています。マスタードな味付けで食べやすく、そのままでアクセントになります。サラダにマヨネーズと和えても美味しいです。
フローラハウスの玉葱ドレッシング・玉葱酢
「風のハルカ」ハルカお婆ちゃんのお店で有名な「フローラハウス」さんの玉葱ドレッシングと玉葱酢。すぐに完売してしまうため、なかなか店頭でお目にかかれない商品です。
















